小坪 氏子だより

平成7年11月1日(第2号)

発行: 小坪氏子総代会
編集: 氏子報編集委員
代表: 一柳 秀一

三十三年目大祭の各町祭礼委員名

区会、氏子、各町代表者議会が10月15日に開催されました。
各町より選出された祭礼委員は下記の方々です。
ご協力を宜しくお願いします。

南 町 伊勢町 中里町 西 町 西谷戸町 東谷戸町
草柳 純男 一柳 和男 平井 康徳 岡村 万里 草柳 澄夫 牛尾 不二夫
高橋 康治 勝島 一雄 大木 春夫 安田 利男 一柳 義孝 吉岡 広治
常盤 耐希 高橋 利一 大木 咸吉 高橋 二郎 高橋 忠夫 村田 義兼

(敬称略)

三十三年大祭 特集

行合祭りの三十三年目について

東谷戸 高橋 正義

三十三年目の謂れにつきましては、古老の多くは素戔鳴尊と稲田姫が巡り逢われた時の尊の御年と信じていたようですが、次のような話もあるのです。

昔尊が若い頃、数人の供を連れて御妃捜しの旅に出られました。ある村に来た時、日も暮れかかったのでその村の一軒の家を見つけ宿を頼みました。その家は庄屋でもあるのか構えも大きく、人も大勢使っているようでしたが、すげなく宿を断わられてしまいます。仕方なく村外れの小さな家を見つけ一夜の宿を請いました。この家の主人は、家も小さく皆さんを家に入れることも出来ませんが、それでもよかったらと精一杯のもてなしをしました。次の朝、尊は出立の時、「数年の間に此の辺りに悪い病が流行(ハヤ)るであろう。その時は、茅萱草(チガヤグサ)で輪を作り門口に掛けなさい。さすれば悪い病も家に入らないであろう。」と教えて旅立ったのです。三十三年目、無事御妃をお連れになっての帰り道にこの村に寄られますと、かつて宿を断わった人の家は流行病(ハヤリヤマイ)で全員が亡くなっていました。また、貧しくとも優しく持成(モテナシ)した一家は茅(チガヤ)の輪のお陰で一人も病気せず、家族も増え、村を納める程になっており、尊の徳を賜わったそうです。尊が旅に出て帰られる迄に三十三年かかった。それが、三十三年祭りの起源であるという話です。また、 茅萱草(チガヤソウ、小坪ではチヤガ)に付きましては、漁師と深い拘りもあるのですが長くなりますので後日「小坪の昔話」を起草し、そのなかに詳しく書きたいと思います。

※ちがや(いね科)
茎は高さ30~60cm、地下茎は長く噛むと甘い、花の穂には白い長い毛があり、果実が熟すと風に吹かれて飛ぶ。

みこしの歴史

東谷戸 高橋 正義(伊勢町出身)

私達の知っている御輿は、二基あります(大人用)。一基は享和3年(1803年)、一基は明治26年に造られたものです。以下調べにご協力頂いた人は、御輿作成者の子孫で現在大工と彫刻に活躍されている松井為国氏であります。

大神宮様が新築(昭和12年)されるに先立って旧社が取り壊されるまで、本宮の左手の社に納められていた黒い御輿は、享和3年に「松井治兵衛藤原之一森(イッシン)」という松井為国さんより四代前の祖先が造られた御輿だそうです。この一森さんは、松井家の中でも特に彫刻に優れた技術の持ち主で、逗子や小坪の寺社に多数の彫刻品を残しており、鳳凰鳥もこの一森さんの作でありそれを入れる箱に銘があります。そして90年後の明治26年、現在の御輿が出来るまで皆さんに担がれていたのでした。

現在の御輿は、明治26年に「松井治左衛門弟治吉」さんの作で、中の柱に書かれています。作後102年を数えることになります。この御輿は最初、西町の松井さん宅(現、石津さん宅)で造られ、完成間近に現在の「瀬戸薬局さん」の所にあった作業小屋に移され完成したのですが、金具が間に合わず同年の祭りは白木造りのままで使われたそうです。 翌年のお祭りには全装飾品が取り付けられ現在のお姿となりました。

使われた材料はほとんど欅材(ケヤキ)ですが、屋根板は「ほうの木」でした。しかし「ほうの木」は柔らかいため、後年取り替えられました。また、四方の胴金具の下板は釘を打つことから松板で作られているとのことです。なお、現在他の町で見られるきらびやかな御輿の心棒は一本造りですが、小坪の御輿は荒っぽく担ぐ故か心棒が二本造りだそうです。四方の胴板は、先代の黒い御輿の胴板をはがして使ったのですが、小さい為周りに銅板を足して張ってあるとのことです。瓔珞(ヨウラク)は、この時代に小坪出身の方(氏名不明、東京で飾職を修業していた)が作ったそうです。鳳凰鳥の材料は桧です。

「御輿の歴史についてご協力頂いた方」
岡本常三郎(伊勢町)
常盤音吉(伊勢町)
翁川与助(伊勢町)
※敬称略

三十三年祭の思い出

東谷戸 平井 百八郎(南町出身)

3~4才の頃と思う。お祭りの数日、後記念写真を撮る事になったが金棒をなくしてしまい、金棒なしで写真を撮った記憶がある。それは、金棒をなくしてしまった為に母親に怒られたことが、特に強く残っているものと思う。

少し大きくなってからだと思うが、その時のお祭りには大人達が名所の休憩所で八木節を踊ったという事を聞かされた。又、当時の記念写真には花を飾った山車が写されていたので、おそらく何台かの山車を曳いて行ったのではないかと思う。前回(昭和39年)の大祭は、各町内で山車の代りにトラックに飾り付けをして参加している。当時は、お囃子を担当していて役員から離れていたので細かな事につては残念ながら記憶していない。

お祭りと父

東谷戸 福本 寛

父は勤めの関係で御輿を担いだ経験が少ないと思う。若い頃、御輿を担ぐ為に休暇を申請したが上司から「一年中御輿を担いだらどうだ。電車には日曜も祭りもない」と不許可になったと言う。前回のときは区会の役員として忙しくしていた。

そんな父が孫2人の為に小さな半天を買ってきて、母がそれを孫達に着付けてくれた。その時の両親は2人の可愛さや幸福感を顔と体で表わしていた。父はそのシワだらけの両手で「もみじ」の様な孫の手を握り、彼等もまた互いに顔を合わせ、自分の半天姿にはにかみながらも祖父と祭りに行けることが楽しみらしく足元は踊っていた。山車に乗せてもらい太鼓の音に驚き、それでも山車から降りようとしなかった。そんな孫の表情をじっと見守る父の顔は、いつもの口を「への字」に結んだ難しい顔とは別人で好々爺そのものであった。若健在ならば来年は「米寿」である。

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