小坪

小坪は、ふるさと … 小坪のむかしばなし …

文: 高橋 正義

新平鯨

葉山に残る民話で、七桶(ななおけ)のタコの話は、いろいろの民話集などで知っている方も多くいらっしゃると思います。しかし、この話も昔から葉山の方々より小坪の漁師の方々が、多く語っていたようです。
私が漁師をしてシラスを獲っていたときも、葉山のシラス舟より小坪のシラス舟の方が、この七桶の海でシラスを多く獲っていたのでした。
私の父は、磯と磯とに挟まれたこの小さな海域に網を入れ、シラスを取るのが得意でした。また、七桶の伝説や新平鯨の話なども話してくれました。
私たちが小学校入学前のことです。男の子ですから、近所の同じくらいの年頃の子どもたちとよく遊び、ときには口喧嘩をしました。私の家のすぐ上の新平(しんぺい=永田家)さんの子どもさんとも口争いの後では、意味も分からず、「新平鯨、新平鯨」とはやして逃げたのでした。
小学校四年生の頃、父が、囲炉裏の灰を掻立てながら新平鯨の話をしてくれました。

千葉県房総半島の先端に、館山湾があります。そこに、勝山という昔から栄えた漁村がありました。この勝山(昔の人はカチ山と呼んでいました)の漁師は、この近海(伊豆、三浦、房総)ではただ一か所、鯨をとる漁師たちがいました。なかでも勝山の新平といえば、近村にその名を知られた舟元でした。
鯨をとるのには、十隻以上の船団で一頭の鯨に狙いを付けて何本もの銛(もり)を打ち込み、鯨の弱るのを待って、太い網を二本も三本も鯨に打ち込んだ銛に繋いで港に引いてくるのです。新平では、若い跡継ぎの息子さんが当主になりました。この若い新兵さんは、自分が当主になり一番銛の打ち手になったときに、村の鎮守様に願掛をしていたのでした。それは、「一日も早く三十三尋(ひろ)のオセミをとらせてください。」との祈りでした。
三十三尋のオセミとは、どんな鯨なのでしょうか。
日本近海では、鯨のなかで一番大きい白ナガス鯨は来ません。また、マッコウ鯨はどう猛で、一本や二本の銛を打ち込んだぐらいでは弱りません。それどころか逆襲してくると、当時の舟では尾で跳ね上げられて、舟を壊されたり人が殺されたりすることも珍しいことではありません。
そこで狙うのは、セミ鯨、イワシ鯨、赤ンボウ鯨などでした。この中で一番大きいのはセミ鯨でした。三十三尋のセミ鯨と言いましても実際に三十三尋あったわけではありません。一尋は六尺で一尺は三十三センチです。これでは計算が合いませんが、中国流の特殊な計算方法なのでしょうか。
私が昭和14年に見ました新聞の記事に、日本の捕鯨船が南氷洋で捕ったシロナガス鯨が三十三メートルあり、今までの記録であると報じていました。ただこの時代、勝山の鯨捕りの人たちにとって、三十三尋のオセミは念願の獲物だったのです。
若き新兵さんが鎮守様に願掛けして数日後、魚見櫓(やぐら)の見張りから鯨が来たぞの大声が村中に響きました。勝山の鯨捕りの船団が次ぎ次ぎと先を争って出漁して行きました。
一番先に大量旗を立て矢声(やごえ)にあわせて、鯨を引いて帰ってきたのは新平丸の船団でした。鯨は念願の三十三尋のオセミだったのです。夢が叶って意気揚々と家に帰ってきた新兵さんの目に入ったのは、新平さんの初めての赤ちゃんの胸につき刺さった鯨銛でした。
昔、漁師の家では天井がなくて、梁という大きな横木があって、これに縄を掛けて、釣り針、銛竿(もりざお)など、長い物を吊り下げてあるのが普通でした。
新平さんの家では、何としたことか、念願かなって三十三尋のオセミを捕ったその日、天井から吊してあった銛竿の縄をネズミがかじり切ってしまい、下に寝ていた赤ちゃんの胸に銛が刺さってしまったのでした。

あまりにも無理な念願はするな。その戒めを短い言葉で残したのが「新平鯨」という言葉になったのだそうです。常に伊豆や千葉と交流のあった小坪に、この言葉が伝わり意味も知らない私たちが、同じ屋号の友だちに、この言葉を使っていたのでした。
私がこの文を書くことで、他国の民話が小坪で生き返ることを願って書き残します。

※尋…水の深さ、縄などの長さの単位。一尋は、六尺(約1.8メートル)

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