小坪

小坪は、ふるさと … 小坪のむかしばなし …

文: 高橋 正義

頼朝様の鰹

鎌倉時代のことです。
その頃、小坪は逗子ではなく、鎌倉のいちばん東の村でした。小坪で獲れた魚のほとんどが、鎌倉で売られていました。
その頃からでしょうか。小坪の漁師の間に、頼朝様の鰹(かつお)と言われる鰹がありました。その鰹を獲った人は、それを鎌倉八幡宮に奉納するのが習わしとなり、昭和時代まで続いていたのでした。
その頼朝様の鰹とは、どんな魚なのでしょうか。

あるとき、源頼朝が沖の大きな船に乗るために、海岸から小船に乗り替えようと、船の間に渡した板を大きくまたごうとしました。そのとき、一匹の大きな魚がガバッという水音を立て水面に踊り上がって、頼朝の腰の刀の下げ緒についていた鹿の角に食いついたのです。
頼朝の家来は大いに驚き、「やや、毒の魚じゃ」と、大騒ぎしました。
頼朝公は少しも慌てず、その魚を腰にぶら下げたまま大船に乗り移り、大声で家来を制し、「船出に当たって毒の魚とは何ごとぞ。この魚は、勝の魚じゃ、勝魚(カツウオ)じゃ」と叫び、今日よりは勝の魚と呼べと言われました。依頼、勝の魚から「カツオ」となったのだそうです。
徳川時代以後は珍重された鰹も、頼朝公の時代には、毒の魚と言われていたそうです。それは、たまに鰹のサシミを食べて食当たりをした人が、激しい腹痛に苦しんだそうです。しかし、この時代には、腹痛を直す良い薬など無いので、毒のある魚と言って、あまり食べなかったそうです。

それでは、この「カツオ」と小坪の漁師との関わりはどうでしょうか。
鰹は、相模湾で獲れる最も早い時季の物を五月鰹(さがつお)と呼びます。それより早い2月、海老をとるために夕方仕掛けて翌朝上げに行く海老網に鰹がかかることがあります。ただし、この時期この海老網にかかる鰹は、必ず一匹です。
群で回遊するはずの鰹が、なぜ一匹なのでしょうか。
それは、今でも分かりませんが、とにかくこの鰹をとった人は、舟を引き上げるとすぐに、鎌倉八幡宮に鰹を奉納に行き、「今年も鰹は豊漁じゃ」と喜び合ったということです。
私たちの知る限りでは、昭和23年頃の2月に、私の同級生の友で、小坪の民謡の先生であった一柳伝七さんのお父さんの網にかかり伝七さんが八幡宮に奉納に行ったのが、この習わしの最後のようです。
ちなみに、鰹のサシミを食べるときに、生姜、紫蘇の葉をよくつけますが、風味だけでなく毒消しの意味も大いにあると言われています。
毒の魚からカツオ。徳川時代、嫁さんを質に入れても食べたいと言われた鰹は、高値のときは一匹一両もしたと言われています。しかし、この時代、一両あればお米が二俵半俵(にひょうはんたわら)買えたということです。二表半俵とは、今の量では150キログラムになります。

Page Top