小坪

小坪は、ふるさと … 小坪のむかしばなし …

文: 高橋 正義

弘法の井戸

「みずぅー、みずぅー」熱い日差しにうんざりしながら、逗子の小学校高等科(今の中学校)から下校中の私たちに行違うように走り去る自転車。
この自転車にはサイドカーのように左側にリヤカーがついていて、そのリヤカーには大きな木の箱が乗せてあり、箱の中にはいっぱい水が入っていました。
自転車を漕いでいる人は30代位のオジサンで「水う。水う。」と言いながら、歩いている人に水を売っているのです。
その頃は、小坪から逗子に行くバスはありません。また、逗子から葉山にも横須賀にも、行くバスがありません。その他の車も滅多に通りません。道行く人も多くはありません。が、しかし、用があって外出する人は、大きな麦藁笠(むぎわらかさ)をかぶったり、手拭で汗を拭き拭き歩いているのですから、当然喉が渇きます。そういう人を目当てに自転車のオジサンは水を売っているのでした。が、私たちはこのオジサンが売る水の出るところを知っていました。その井戸は私たちがこれから帰る途中にあるのです。
切り通しを上がり、坂を登り切った途端、喉が渇ききった私たちが、一斉に駆け出し目指す井戸。その井戸こそ「弘法の井戸」なのです。真夏の渇ききった喉に、それはそれは顔の汗も吹っ飛ばすほど冷たいおいしい水でした。

その井戸は、今はありません。その場所は今の大谷戸公民館の逗子寄りの所、現在のハマヤガラス店の作業所とその手前にアパートがありますが、そのアパートの辺りにありました。小坪寄りの所は田んぼでした。
昔は、現在の切り通しを通り逗子に行く道はありません。披露山に行く細い山道、その探さなければ分からないような道の出入り口の近くにこの井戸がありました。

昔の人の話では、大昔、この地に弘法大師様が巡ってこられました。そのとき、山越しの旅であったために喉が渇き、田んぼで働いていた人に水をくださいと頼みましたが、家に帰らなければ飲み水はないと言われました。しばらくあたりを見まわしておられました弘法大師は、持っていた杖を地中深く突きさしました。
そして、その杖を引き抜きますと、なんと、そこから清水が昏々と湧き出したのでした。おどろくお百姓さんに、大師様は、「ここに井戸を掘りなさい。その井戸はどんな日照りの時でも水が枯れることはないでしょう。」と言って、立ち去られました。
教えられた土地の人は、早速そこに井戸を作り、大師様の徳を偲んで「弘法の井戸」と名付けました。

昔から、小坪には驚くほど井戸が多くありました。飲み水としてはもちろん、物を洗う、冷やす、冬暖かく、夏冷たい水。水道の無かった時代、各家庭では大きな水桶を玄関(といっても土間)に置き、水を蓄えておきました。それは、一番恐ろしい火事に備えるためでもあったのです。
鎌倉時代の昔から小坪を代表する井戸の、その一番は飯島の「矢の根井戸」です。次は、伊勢町の伊勢山大神宮の手前にある「殿井の井戸」です。小坪の人はトンノウチの井戸と呼んでいました。三番目はこのお話の東谷戸の「弘法の井戸」なのですが、今はその形もなく、このお話をしても、土地の人ですら知っている人は少なくなりました。

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